尾関章

大河ドラマは、どうも好きになれない。昔の人物に今の倫理を押しつけている印象が拭えないからだ。かつて書いたことをもう一度繰り返すと、武力が正当化され、人権がないがしろにされていた世情をそのまま描かず、近代市民社会の常識と折り合いをつけるべく美化しているところがある。視聴者の反発を買わないための脚色かもしれないが、嘘っぽさは拭えない。 乱世の物語を血なまぐさいまま活写せよ、とは思わない。ただ、美化とは違う描き方もあるはずだ。歴史の転換点では、人間の野心、嫉妬、愛憎があからさまなかたちで表れる。その確執を巧く切りだせば、見ごたえのあるドラマになるだろう。シェイクスピア作品がそうだ。舞台劇ということで流血沙汰は様式化され、登場人物の心模様が台詞を通して見えてくる。 日本史では室町の世が、そんな心理劇の芽をはらんでいる。幕府はあるが、背後に最高権威の朝廷が控えている。公家もいる。大名もいる。政治権力が一極に集中することなく、いつも揺らいでいる。渦中にいる人物が鋭敏な感受性の持ち主ならば、その思考は深みを帯びたものになるはずだ。しかも、当時は仏教の各宗派が並び立ち、茶に親しむ習慣や庭園を愛でる文化も生まれていたから、それらもものの見方に陰翳を与えたことだろう。 で、浮かびあがってくる人物の一人が、室町幕府第8代将軍足利義政(1436~1490)だ。少年期に将軍職に就き、世継ぎ問題をこじらせて応仁の乱のきっかけをつくってしまう。将軍の座を退き、歴史の主流からはぐれた人だが、その一方で芸術を愛で、わび、さびの東山文化を生んだ。この人の内面には興味が湧くではないか。きっと、多元的な思いが絡みあっていたに違いない。それをあぶり出せば、一つの作品として成立するだろう。